現役の東大・京大・東北大生が「”身近な事象”と”教養”」をテーマに、「教養」をわかりやすくまとめています。今回のテーマはカント「純粋理性批判」です。
本気を出せば1時間もかからない程度の分量だと思います。「カントを1時間程度で」と言う表現は流石にカント に失礼になると思いますので、カントの名著「純粋理性批判」についての重要な部分と全体の流れを中心に書こうと思います。
今回の記事を読めば、なかなか触れづらいカントを体系的に理解できるだけでなく、今まで当然と思って見えていなかった世界が少し見えてくるようになります。
極力難しい言葉は使わず、理解しやすいよう丁寧に解説していきますが、中身はとんでもなく濃いものになっています。これを読む時間と読んだ後が非常に充実した時間になることをお約束します。
全体の流れですが、1章から4章まででカントの哲学の背景をお話しし、5章から10章でカントの哲学を紹介します。
目次
神の存在の議論を終わらせたのはカント
まず初めに、彼の現代にも通じる身近な功績をご紹介します。

カントが生きた18世紀には、皆さんも想像できるかと思いますが、ほとんどの哲学が、神の存在や死後の世界や魂の議論、宇宙の全体や宇宙の起源など、私たちの感覚を超越したようなものを哲学の研究の対象としていました。
ですが、現代は神の存在や死後の世界について真面目に議論する人なんてあまりいないですよね。
その分岐点となったのがカントです。
今では「神がいるのかいないのかの議論はしても答えは出ない」というのは当たり前ですが、その「答えは出ない」と最初に結論づけたのがカントでした。実際、カント以降、神や死後の世界などの超自然的なテーマを議論する哲学者はほとんど現れなくなりました。
我々人間が認識できる範囲はどこなのか、これをこの時代に結論づけたカントのおかげで現代の我々が神について議論することなく、自然科学を信じ発展させ、「豊かに進歩することができた」(自然科学の発展を進歩と言わない考えもあるので「」としています)のです。
解決したかった難題〜18世紀ヨーロッパの時代背景〜
詳しいカントの考えに入る前にもう一つ重要な前提があります。それは、
なぜカントはこれらの考えを発信したのか
ということです。
つまり、どのような時代背景があって、何のために「純粋理性批判」という本を書いたのか。目的がぶれると一気にわからなくなるのでここは忘れないようにしてください。時代背景とともに説明していきます。
カントの生きた当時の18世紀のヨーロッパは現代に通ずる歴史の中で最も重要と言っても過言ではない「フランス革命」が1789年に起こります。フランス革命についてよく知らなくても全く問題がありません。大事なのは、この時代のヨーロッパは「社会の価値観」というものが大きく転換したということです。
つまり、何を信じて良いのかわからないということです。これは現代でも少し実感できるものがあるでしょう。1つの企業に一生を捧げる終身雇用の形が理想の社会的な生き方でした。しかし、現代では転職が普通で副業も推奨されています。そのため今は生き方を親世代に聞くことは非常に難しい時代です。

18世紀のヨーロッパでは、価値観の衝突や多様化が非常に急激に短期間で起きていったのです。このようになると社会は、価値観を信じる「根拠」を探し始めます。
そうした背景もあって、根拠を示しながら結論を見出す「数学」や「物理」などの自然科学も発展していきました。具体的に挙げますと、惑星の運動法則が発見されたり、ニュートンが万有引力の法則などの物理学の基礎を築いたりした時代でした。
カントもニュートンに大きな影響を受け、天文学や物理学の研究をしていました。
今でこそ「哲学」と「自然科学」は全くの別物として捉えるようになっていますが、当時は「哲学」と「自然科学」は同じジャンルとして考えられていました。ニュートンが出した物理学の名著「プリンキピア」も「自然哲学の数学的諸原理」と訳されています。ですから、私たちが今回学ぶ際も、物理学や数学と同じように哲学を考えていたことを理解して考えると面白いと思います。
これらの、現代でいう”理系”の自然科学が劇的な発展を遂げる中で、近代ヨーロッパではこんな2つの疑問を感じるようになります。それが次の2つです。
例えばりんごは、この形で赤くて丸い。
もしかしたら、自分じゃなく他の人が見たら違う形に見えているかもしれない。自然科学は、客観的にものを理解することを目的に研究しているのに、そもそも自分の主観を通してしかモノを理解できないなら、厳密な「客観性」なんてないんじゃないか?
②地球も星もこのリンゴも、全てのモノは、”規則性”に基づいて同じように動いている。そうであるなら、我々人間も、すでに規則性にしたがって決まって動いていて、我々が感じている「自由な意思」などないのか?
カントの生きた18世紀のヨーロッパではこの2つの問題が非常に難しい課題として存在していました。
カントが思想を始めたきっかけとなった大事件
2章は当時の時代背景を説明しました。これに加えて、カント自身にもこの思想を始める大きなきっかけとなった出来事がありました。
その衝撃を与えたのはヒュームという哲学者の懐疑主義でした。

このヒュームの説明をする前に、西洋近代哲学の話をする上で避けては通れないカントの哲学の前に存在した、2つの大きな考え方の流れを簡単に説明します。
一つはイギリスを中心とした経験論です。もう一方は、ヨーロッパ大陸の主にドイツを中心とした大陸合理論。これらは感覚で得られる「経験」と感覚ではない「知性」という精神的な部分どちらを重視しているのかを意識するとわかりやすいです。
経験論と大陸合理論
経験論はジョン=ロックや先ほどのヒュームに代表されます。
考え方としては、あらゆる知識は「経験」だけによって得られるというものです。経験を得る「感覚」こそ知識を得る源と考えます。
一方で、大陸合理論はスピノザやライプニッツに代表されます。
考え方としては、まず私たちの目や耳や鼻などの感覚は非常に疑わしいものだと考えます。「私たちの”感覚”は信用できない」ということですね。上の疑問の①を考えてみればわかりやすいと思います。ではどうやって物事を理解するのか。神によって「知性」が与えられたと考えます。経験によって感覚で捉えなくても、その知性を用いて合理的に物事を捉えることができるという考え方です。
よくわからないかもしれないのでもう少し具体的な例をあげます。「私は死ぬのか?」という問題があったとします。一度、「あなたは死にますか?」と誰かに質問されたとき、どう答えるか考えてみてください。
「あなたは死にますか?」「それはなぜですか?」
ほとんどの人が、「私は死にます。なぜなら、人間などの生物はみな死ぬからです。」と答えると思います。では、この「人間などの生物はみな死ぬ」という知見はどこから得ているのでしょうか?
経験論の場合、これまで知り合いや有名人などの多くの人が死んだのを見たので「人間は死ぬ」という知識を得られます。そのため、「私は死ぬ」と結論を見出せます。ただ、この経験論では、これまでの経験では多くが死んだが、「自分は死なない」可能性も排除できないというところに特徴があります。
合理論の場合、「人間は死ぬ」という普遍の原理が神によって与えられた「知性」を人間は持っているので正しいものとして捉えることができます。「人間は死ぬ」ので、「自分も死ぬ」という結論が導けるのです。
では話をカントに戻します。
カントはドイツ人だったので、大陸合理論の影響を大きく受けていました。そんな時、経験論者のヒュームの思想を受け、衝撃を受けました。
カントが衝撃を受けたヒュームの主張はこうです。
我々人間は決して主観の外からは出られない。「同じもの」を見ていても、「自分の見え方」が、「他の人の見え方」と同じかどうかは決して知ることができない。「客観的に正しいこと」と思われる”普遍の真理”も習慣的にそう信じているだけで、客観的な世界をそのまま捉えたものではない。
ヒューム
“普遍の真理”を「習慣的にそう信じているだけ」としたのです。ヒュームはこの世の因果関係の法則も全て否定します。自然界に因果関係が備わっているのではなく、我々人間が因果関係を信じ込んでいるだけだというのです。
例えば、ある夏の日、暑い外でアイスを持っています。アイスは時間が経てば経つほど溶けていきます。その時私たちは「暑いから溶けたのだ」と認識します。

この、「暑いからアイスが溶けた」という原因と結果の必然的なつながりをヒュームは否定しました。自然界側に、このような「暑い→溶ける」因果関係が成立しているわけではなく、人間側が必然的なつながりがあると信じ込んでしまっているだけだと主張しました。
確かに、現代の私たちがボーッと生きていると、「自然界側」にそのような法則があると考えてしまいます。この「我々人間側自身で作り込んでいるもの」というヒュームの主張ももしかしたら正しいかもしれないのは理解していただけると思います。
(ちなみに、ヒュームの懐疑論を考えるとき、映画「マトリックス」を見ると具体的にイメージがしやすくなります。映画としても非常に面白いので、まだみたことのない方はぜひ観てみてください。)
この経験論の主張に、大変な衝撃を受けました。自然科学の研究の最大の目的である自然界の「客観性」や「合理性」への信頼が一瞬にして崩れ去ったのです。カントはこの話を聞くまでの自らを「独断のまどろみ」であった、と表現した話は非常に有名です。
天文学や力学などの自然科学を研究していたカントにとって、その自然科学の信頼性を改めて考え直すことが、大きな課題だったのです。
このような背景において、経験論と合理論の2つの影響を解決しようとしたカントは、近代哲学の歴史において、経験論と合理論を統合した人物であるといわれます。
カントに影響を与えたもう1人の人物
そして彼の思想に大きな影響を与えた人物がもう一人います。フランスの非常に有名な思想家のルソーです。

カントの著書「純粋理性批判」の中の最大のテーマは『「道徳」に関する人間の生き方』でした。カントはルソーの人間観には強い影響を受けていました。前章の疑問の②をここでもう一度確認します。
②地球も星もこのリンゴも、全てのモノは、”規則性”に基づいて同じように動いている。そうであるなら、我々人間も、すでに規則性にしたがって決まって動いていて、我々が感じている「自由な意思」などないのか?
時代は、自然科学の発展で様々な法則性が見出される中、人間の「自由」は存在しているのかは常に疑問の対象でした。
私たち人間の「正しい生き方」の判断の根拠は何に求めればいいのか。ヒュームから受けた挑戦とともに同時に解決しようとしたのです。
客観性を保証せよ!〜どのようにモノを認識するのか〜
ここまでは、カントの哲学の背景についてご説明しました。ここからは、本格的にカントの主張に入っていきます。新しい概念がたくさん出てくるので、疲れたら一度休憩を挟んでみるのも良いと思います!
まず、当時の哲学者の中で難題とされていた、事物の「真の客観性」の問題がありました。ヒュームの言うように、「私たちは私たちの主観でしか物事を捉えられないので、本当の客観性は証明することができない。そのため、自然科学は単なる人間の想像にしか過ぎない。」という課題です。
カントは次のように考えることでこの課題を解決しようとしました。
・我々人間は、物事の本当の姿(客観的な姿)を見ることができない。
・ただ、我々人間は皆、共通して同じ認識方法を生まれながらにして持つので、「人類の間で”客観的”」に物事を見ることができる。
つまり、モノの本当の姿を追求しなくとも「人類の間での共通の姿」を捉えることができるので、その点で客観的である。
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詳しく解説していきましょう。
叡智界・現象界
まず前者(我々人間は、物事の本当の姿(客観的な姿)を見ることができない。)ですが、カントはヒュームの懐疑論をその点で認めました。私たちは、自分の主観の外に出ることはできないので、モノの本当の姿はわからないままです。
カントは、「本当の世界」と「私たちの主観で捉えたモノの世界」それぞれに名前をつけて分けました。
・「モノの本当の世界」を叡智界(えいちかい)
・「私たちの主観で捉えたモノの世界」を現象界
と呼びました。つまり、私たちは私たちの感覚・主観を通してモノを認識している以上、叡智界のものを決して認識することができず、現象界のものを認識しています。
叡智界はパラレルワールドのようなイメージだと分かりやすいと思います。余談ですが、「叡智界」というような新しい言葉を知ると、叡智界という存在が自分の中で認識できるようになるので、また新しい視野を教養によって身に付けられるんですよね。それが知識の面白いところです!
話を戻しましょう。
続いて後者の『ただ、我々人間は皆、共通して同じ認識方法を生まれながらにして持つので、「人類の間で”客観的”」に物事を見ることができる。』という点です。
まずは、カントが考えたモノのの認識の方法を見ていきましょう。
感性・悟性
人間が物事を認識する際、「感性」と「悟性」の2つを用いて認識しています。人間が共通してもつ認識の道具は「感性」と「悟性」という2つのフィルターという形になっています。
人間は目や耳や鼻などの感覚器官を使って物事を刺激として捉えます。この多種多様な刺激を「空間」と「時間」という2つの基準で整理されます。この機能を果たすのが「感性」です。
具体的に考えてみましょう。できるだけ頭を真っ白にして考えてみてください。

目の前に「皿に乗ったリンゴ」が1つあります。まずこのリンゴを事物として認識するには空間の中で色や形の広がりや硬さなどで存在を認識しますよね。例えば、今この世が平面だったら、このリンゴと皿の違いを認識することができません。平面である「絵」も空間を使って初めてものとして認識できます。
皿に乗ったリンゴの話を続けます。ここで時間の概念があって初めてそれが存在することになります。「今」刺激を捉えているんだということです。一度、もし「時間」の概念がなかったら…?」と考えてみれば分かりやすいと思います。(「時間」の概念があるのは、当たり前のこと過ぎて想像するのが難しいかもしれません。)
もし時間がなかったら「ある」も「ない」という概念自体も存在しなくなります。「ここにリンゴがあります。」とは言えないですからね。「今ここにある」「今ここにない」という時間の設定と一緒に存在を定義できるのです。もしここが分かりにくかったらぜひコメントしてください!
ですから、感性は、多種多様な「カオス」な刺激を、「空間」と「時間」という2つの軸で整理する機能を果たします。ここで整理されたモノの情報は「直感」と呼びます。
ここでカント哲学で重要な点があります。
それは、この「空間」と「時間」は人間側にその概念があるということです。逆に言えば、事物そのもの、つまり、叡智界側にあるわけではないということです。
もう一度確認しますが、この点ではヒュームと同じ意見を持っていて、人間がモノの本当の姿のある叡智界を捉えることはできません。あくまで、人間が持つ感性の働きによって「現象界のもの」として認識している、という考えなんです。
現代の僕らは無意識に、モノの側に空間と時間が存在していると思いがちですが、カントは、私たち人間は、空間と時間でしかモノを捉えられないと考えたんです。もしかしたら、空間と時間以外に広がる世界が叡智界にはあるのかもしれませんが、それを見るのは人間に生まれた以上無理ということですね。もしかしたらあるかもしれないパラレルワールド……考えると胸アツです。

「皿の上の一個のリンゴ」の話に戻ります。感性を使って、空間と時間の中で情報を整理して直感を得ました。ここまでは説明した通りです。その直感はまだ、「皿の上の一個のリンゴ」というわけでなく、空間と時間の軸でしか整理されていないため、まだまだ漠然としています。ここでそれをモノと理解する能力が「悟性」です。
悟性の説明をする前に、先ほど、カント哲学で重要な点と言った、空間と時間は人間側にあるという点についてお話しします。
この点を何度もお話ししていますが、「一個のリンゴ」が目の前にあったとして、人間が見えているものは共通の認識方法を用いているので同じように見えていますが、例えば、犬や宇宙人にとっては全く別の物体に見えているかもしれません。それは、「感性」と「悟性」を使って認識しているのは人間だけだからです。
ですから、我々人間は、『”客観的に存在している”一個のリンゴを、我々が認識している』のではなく、『認識が、「ここに一個のリンゴがある」と捉えているからリンゴが存在している』という考えになるのです。
つまり、「モノは客観的に存在する」のではなく、我々が現象界で認識しているから存在するという考えなのです。

これをもう少し正確な言葉にすると次のようになります。
従来は「認識が対象に依存する」と考えられていましたが、カントは「対象が認識に依存している」と発想を逆転させました。この逆転の発想をカント自身が「コペルニクス的転回」という有名な言葉で表現しました。
コペルニクスは、当時、地球が回るのではなく、地球を中心に天体が回っているという非常に強い観念を、「地球が回っている」という、当時としては、とんでもない発想を発表した人物です。その革命的な発想の大転換を模して、カントはこの認識論の転換を「コペルニクス的転回」と表現しました。
直感を認識に落とし込む「悟性」
前の章では、人間が認識するプロセスについて確認しました。もう一度簡単に振り返ります。まず「感性」を使って、刺激を空間と時間の軸で整理し直感を形成します。その後、その直感を「悟性」を使って秩序づけ情報を判断します。「これは、皿に乗った1個のリンゴである」というように判断します。
前章の「感性」で得た直感は、時間と空間の2つの軸で整理されたといっても、時間と空間の中でしか把握できず、まだグチャグチャでした。そのグチャグチャの直感を私たちは、どのように、秩序づけていくのでしょうか?
悟性は2つの「概念」を使って、直感を秩序づけます。
経験的概念
まず、1つ目が、後天的に身に付けた概念です。これを「経験的概念」と呼んでいます。例えば、「動物」や「人」などのグループ分けの考え方がこれに当たります。小学校で「爬虫類」や「昆虫」について学んで初めてその概念を知りますよね。生まれた時から、「爬虫類だ!」とわかるわけではないと思います。他にも、例えば、「もったいない」という言葉は、多くの外国にはありません。この概念は私たち日本人にはあって、外国人にはそもそもなかった概念だと言えます。人類皆共通の概念ではなく、生まれた後からの学習や文化によって生まれた後天的な概念のことを「経験的概念」と呼びます。
純粋的概念
もう一つが、その逆で、生まれた時から持っている概念です。これを「純粋的概念」と呼びます。純粋的概念は、4種類あり全12個あります。逆に言えば、この4種12個以外は全て「経験的概念」にあたります。
その純粋的概念の4種12個の基準を「カテゴリー」と呼びます。そのカテゴリは以下の表に示しました。

この12個それぞれを紹介するのは大変な量になってしまうので、それはやめて、ここでは1番目の「分量」でイメージを掴んでいただいて、重要な3番目の「関係」をご紹介します。
ちなみに、この説明の中で、「言葉」を用いて説明しますが、「言葉自体」は経験的概念です。言葉でなくその「概念」ということを意識していただきたいです。(この説明はよくわからなくても大丈夫です!)
1の分量は「総体性(全て)」、「数多性(いくつか)」「単一性(ひとつ)」の3個あります。一個のリンゴを見た時、「一個」と認識できるのは、経験から「1個」と処理できるわけではなく、先天的な概念を持っていて、それと照らし合わせているから認識できる、ということです。(「1個」という言葉自体は、言葉は生まれてから身につくので「経験的概念」です。その言葉と結びついている”意味自体”の概念が「先天的」と言う意味です。)
それが複数集まって、「数多性」になり、それらが集合の全部をグループとして認識すると「総体性」になります。これらは全て純粋的概念で先天的な能力であるというのがカテゴリーのひとつ「分量」です。
3番目の「関係」の種は、自然科学と最も関係するカテゴリーです。これは2つの事柄に必然的な関係を考えるという能力の型を示します。私たちは、「食塩」という物質に対して、それに特徴的な「白い」「しょっぱい」と言う性質を結びつけて「塩は白くて辛い」と言う「判断」をしています。食塩にはこれらの性質が必ず所属しているのであって、偶然「塩は白くて辛い」とは考えないと思います。「あぁ、塩というのは白くてしょっぱいものなんだな」と性質をものと結びつける能力を示すのが、「実体性」です。
「関係」のカテゴリーの2つ目の「因果性」は、「ある原因が必ず一定の結果を表す」と人間が考える性質のことです。アイスの例をもう一度考えます。「気温が高いから、アイスが溶けた」と考え、「気温の高さ」と「アイスが溶ける」を原因と結果として結びつけます。ヒュームは、「2つの事柄が常に順番に生じるだけであって、必然性は自然界にはなく、人間が経験から勝手に習慣として必然と思うだけ」と言っていました。
これに対して、カントは、「ある原因が必ず一定の結果を表す」というのは、ヒュームのいうように単なる経験的な習慣からそう判断するわけではなく、生まれながらに備わった能力であるから、叡智界で因果性があるのかはわからないけど、現象界では客観的で因果性があるとヒュームらの経験論の考えを退けました。
あとのカテゴリーに関しての説明は割愛します。以下のリンクに簡単な背負い会が載っていますので、ご参考程度にご覧ください。no.4 www.aoni.waseda.jp
カントの論理は、(5章の始めの方に言いましたが、)人類みなが、生まれながらにして持つ概念を認識の中で用いているので、叡智界は見えなくても、現象界で、現象界の本当の姿を人間全員が客観的にものを見えていると主張しました。
ヒュームは、私たち人類が皆、「経験的概念しか持たない」という結論だったのです。この「純粋的概念」という考え方がカントが持ち出した革新的なアイデアだったのです。生まれながらにしてもつという「先天的」という言葉はラテン語で「ア・プリオリ」という言葉を使います。カントの哲学では非常に重要な概念ですので、ア・プリオリという言葉は覚えておくつ良いと思います。(ちなみに、後天的は「ア・ポステリオリ」と言います。)

ここまでをまとめますと、人間の認識の方法は、目や耳や鼻などから受け取った刺激の情報を、ア・プリオリに備わっている感性が時間と空間の2軸で整理し直感を形成します。その直感を悟性がさらに秩序づけ、判断をします。その悟性は、4種類のカテゴリーを持つア・プリオリな「純粋的概念」と経験から後天的に得られる(ア・ポステオリな)「経験的概念」の2つの概念をもとに判断します。
ここまでは、カントが結論づけた、人間の「認識方法」についてでした。この認識方法を基礎に、自然科学がいかにして信頼できるものなのかということについて話が進みます。
ア・プリオリな総合判断
前章までで、「感性」と「悟性」を用いて認識する段階をご説明しました。この章は以下の図は先ほどと同じですが、この「直感」→「悟性(純粋的概念のみ)」→「判断」という一連の流れをまとめていきます。

タイトルの「ア・プリオリな総合判断」という考え方で、カントは自然科学が、人類の間で客観的で、シェアできるものだと結論づけました。ア・プリオリとは、先ほど説明しました通り、「先天的な」という意味です。ではここでいう「総合判断」とはどのような概念なのでしょうか。
まず、最終の「判断」の項目についてですが、最も単純な”判断”の言葉は「”A”は”B”である」という言葉だとカントは言うので、この判断の言葉を使ってご説明します。
「”A”は”B”である」これはものを判断してますよね。このAとBにいろんな言葉を入れてみてください。例えば、「”人間”は”動物”である」「”日本の人口”は”約1億2千万人”である」
カントは”判断”を「分析判断」と「総合判断」の2つに分けました。分析判断とは、「人間は動物である」のように、AがBに含まれているもの。明確なものでは、「三角形は図形である」「日本は島国である」などが分析判断にあたります。
一方で総合判断とは、「日本の人口は約1億2千万人である」のように、Aに含まれていない情報がBに加えられるもの。明確なものでは、「富士山は3776mである」などが総合判断にあたります。この総合判断は、必ずしも正しいとは言えません。富士山や日本の人口のように正確さが保証されているものは疑うこともありませんが、「日本は綺麗な国である」「日本人は真面目である」などは正確に正しいと言えません。
分析判断は、AがBを含んでいるので、Bが間違いと言う論理が成り立つことはありませんが、総合判断は、Bによって意味が拡張されるので、Bが間違っていることもあります。

ヒュームなどの経験論の哲学者たちは、人間の全ての総合判断は後天的であり、経験に基づいて判断されると言う主張でした。一方でカントは、この人間の総合判断には、経験にもとづく総合判断だけでなく、先天的に備わるア・プリオリな総合判断もあると主張しました。
例えば、「7+3=10(7足す3は10である)」と言う簡単な足し算(算術)の判断は分析判断か総合判断かどちらでしょうか?
正直、これはどちらでも正解と言えます。この算術は、どの判断なのかと言う議論は様々な哲学者で意見が分かれます。
カントはこれを「総合判断である」と考えました。ヒュームはこれを分析判断と考えていました。(カントの後に出てくる19世紀のフレーゲという哲学者かつ数学者が算術は分析判断であると批判したことも有名です。)
簡単に解説しますが、この算術が「分析判断」なのか「総合判断」なのか、意見が分かれるのは、「7+3」という主語(A)に、述語(B)である「10」が含まれているのかいないかをどう考えるかで分かれます。含まれていると考えれば、「分析判断」、含まれていないと考えれば、「総合判断」という結論になるのです。皆さんはどう考えるでしょうか?
ここではカントの説明をしますので、算術は「総合判断である」と仮定してカントの解説を進めていきます。
先ほど、「総合判断は常に正しいとは言えない」とお話ししました。では、算術を総合判断とすると、自然科学が常に正しく客観的で信頼できると結論づけるにはどのようにすればいいのかが問題になります。この算術が分析判断だったら、間違うことは常にないので人類誰が計算しても同じ結果が得られます。しかし、総合判断である場合は誰がやっても同じ結果になるとは言えなくなるのです。
この総合判断を「ア・プリオリ」とすることで、自然科学がシェアできて誰がやっても同じ結果になると結論づけました。総合判断には、先天的な能力でできるものと、後天的な経験に基づくものと2種類あります。経験のみに基づくとき、人それぞれで判断の結果が変わってきてしまいますが、ア・プリオリに備わっていれば、結果は人間誰もが同じ、という論理です。
そして、その「ア・プリオリな総合判断」とは、感性に備わっている「時間」と「空間」というア・プリオリな基準軸と、悟性に備わっているア・プリオリなカテゴリーを結びつけることで、これが成り立つと展開します。
つまり、人類みなが同じ共通の認識方法(アプリオリな総合判断)を持っているので、算術やヒュームによって否定された因果関係の原理という自然科学の基礎的な部分も、「人間の中で客観的」としてシェアできる、つまり信頼できるものです。

神は存在するのか、しないのか、議論するのはもう終わりだ!
前章まで、「自然科学」に客観性についての議論でした。これは純粋理性批判の前半部分で、後半部は人間の良い生き方についてカントの考察が始まります。
第2章で、カントが生きた18世紀は価値観が一気にひっくり返ってしまった時代だったと紹介しました。自然科学の台頭によって、「神の絶対性」も社会が疑い始めた時代でもあります。そのため、人には正解がわからない非常に不安な社会が広がっていました。
カントが生きるまでの西洋哲学の伝統は、「究極真理」というモノの本当の姿を追求しようとする目的がありました。神は存在するのか、宇宙は無限か、宇宙には始まりがあるのか、生まれる前の世界・死後の世界はどうなっているのか、など答えのでない問いに必死で向かい合っていくのが哲学でした。
カントはこの旧来の哲学を大胆に破壊しました。それが後半部にあたります。
これまで認識の方法の話で、「感性」と「悟性」という2つの認識の道具を紹介しました。新たに人がモノを考えるときに使うのが「理性」です。「感性」は直感を生み出し、「悟性」は判断を形成します。そして、「理性」は「推論」を行うものです。
カントの著書「純粋理性批判」にある意味は、この「推論を導くアプリオリな理性を徹底的に批判して考察しよう」というところにあります。
では、「理性」の働きについて詳しくみていきます。
例えば、「鉄粉に磁石を近づけた」という場面を想定します。まず、感性が、その場面を空間と時間の面から直感を形成します。それを「磁石が鉄粉を引き寄せた」と悟性が判断します。この悟性は、純粋的概念の4種12個のカテゴリーにある「関係の因果性」と結びつけます。「磁石を近づけた」ので、「鉄粉が磁石に近づいた」と考えるわけです。
では、その鉄粉を磁石に近づけた「見えないもの」はなんでしょうか? 近づけたその後、私たちは、「磁力」というものが存在するのではないかと推論します。この推論によって見えないものを生み出す機能を持つのが、「理性」です。
これは「空間」と「時間」という枠組みを超えて、全く目に見えないモノを推定しているというのが特徴です。「感性が形成した直感」と結びついてモノを判断する悟性に対し、理性は全く直感に関係なく推論を進められる機能を持ちます。
そうすると、理性はさらに、「では、何が磁力を生み出しているのか」と推論します。そして、それを推定した後、「では、何がそれを生み出しているのか」そしてそれを何が生み出しているのか…という究極無限ループに入ってします。
「磁力までは、感性と悟性を用いて判断することができますが、その奥に進んでいくと、「答えのでない問い」に突き進んでいきます。これをカントは理性による「暴走」と表現しました。

この「暴走」の最強の例が、「神の有無」「宇宙、時間、空間の始まりと終わり」「死後の世界」でした。
これをカントは、4つのアンチノミーとして紹介しています。アンチノミーとは、お題の「肯定」も「否定」もどちらも正しい、あるいは「肯定」も「否定」もどちらも間違っている、という状態のお題のことを表します。例えば、宇宙は無限か有限か?という問いについて考えます。
有限だとしても矛盾が生まれるので間違い。無限だとしても矛盾が生まれてしまうので間違い。どちらも間違いなので、証明できません!というものです。
ここでカントが証明した4つのアンチノミーはここでは割愛します。詳しくは後日書きたいと思いますので、簡単なリンクをこちらに貼っておきます。ANTINOMY plaza.umin.ac.jp
カントはこれらの証明によって、魂の不死や宇宙の広がり、神の存在の有無を巡る問いを一蹴しました。
そもそも、なぜ、人類は究極の真理を追求しようとするのでしょうか??これらについては、カントが理性には2つの関心があると語っています。1つは、「理性は完全性を求める」もう一つは、その原因は?そしてその原因は?…と問い続けたがる探究心の部分です。これによって人間は現象界から抜け出して答えの出ない問いを探し続けるのだといいます。
この無限の追求の”癖”が最も有効になるのは、ここまで大量の文字数を使って大いに説明した「認識」の面ではなく、行為の領域であるのだと主張します。これがカントの最大の目標である、価値観が混沌としている社会で「よく生きる」根拠を提示するという結論につながっていきます。
人間には自由があるのだ!

もう忘れているかもしれませんが、第2章で紹介した18世期の当時の疑問が、「人の認識」についてのものと、もう一つ、「自然科学であらゆるものの法則性が見つかり始めた今、私たち人間も実は法則の中にとらわれていて、自由な意思などないのではないか?」という疑問です。
ここまで、人間がモノをどう認識し、判断しているのかをみてきました。最後のカントの「私たち人間の自由」についての課題は、認識の範囲である現象界を超えた叡智界にあるとまとめていきます。
カントの結論では、「人間は道徳的に生きることこそ、自由で最善の生き方である」と主張します。
一体どういうことなんでしょうか?
例えば、ある人が喉が渇いたとします。喉が乾いたから、水が飲みたくなります。これは自然法則に縛られているので、ここに人間の自由は存在しません。そんなとき、すぐ近くの人がペットボトルの水を持っていました。これを人間は喉が渇いたから、と言って奪い取ることはしません。これは道徳的に正しいかどうかを自分で考えて、現象界から超えた部分を自分の意思で選んでいるのです。ここにこそ、人間の自由があるとカントは言います。
皆さんも、「自分の良い生き方のために、自分の意思で選んだ」という判断が人生において数多く思い当たるものがあると思います。「やりたくないけど、筋トレしよう」とか、「セール中だけど買うのはやめておこう」とか。このような例も自分の自由意志が働いているように感じます。その自由な意思の拠り所が「道徳だ!」とカントは自信満々にまとめていくのです。
上の水の例では、道徳を拠り所にしているイメージがつきやすいとは思いますが、あんまり納得はいかないと思います。このあと19世紀に出てくるニーチェはこの道徳という自由を徹底的に批判します。納得いかなくてもとりあえずカントの考えを見ていきましょう。
人間は「客観的に見られた自分」と「主観的に考えている自分」の2つがあると考えます。このとき、「客観的に見られた自分」は現象界の物体です。一方で、「主観的に考えている自分」は叡智界の物体です。
ですので、人間は現象界にも叡智界にも属していると考えられます。現象界の人間は、欲望などに囚われてしまいますが、道徳は叡智界にあり、叡智界を求める理性の働きによって、人間は行動を自ら選択し、自由に生きられるのです。
この自由で最善の生き方を実践できるのが、理性です。理性は、理性の関心から「完全」を求めます。その姿勢が、人間に「最善の生き方をせよ」と命令します。
ではなぜカントは、その「完全」「最善」を道徳に求めたのでしょうか。
当時、特にフランスでは、王権が疑う余地もなく最高権力でした。その王権は神によって与えられたものとして保証されていたのです。それがフランス革命によって壊されました。それは「自由」と言う概念を人々が広く理解していったからです。その主な原因となったのが、宗教改革に続くカトリックとプロテスタントの争いの中で、キリスト教の求心力が低下したことです。
そこでカントは、旧来の生き方ではなく、新しい生き方を提示する必要がありました。その枠組みを宗教的なものから切り離して、人間自らが持つ何かからアプローチする必然性がそこにはあったのです。
そして、「道徳」という結論は、4章でご紹介した「ルソー」の思想に影響されていると言われています。カント自身もルソーの影響を受けたことを認めています。カントは、毎朝同じ時間にケーニスベルグという街を散歩していたので、近所の人から、「ケーニスベルグの時計」と呼ばれていましたが、ある日、突然1日だけ現れない日があったらしく、街の人々が心配して様子を見にいくと、このルソーの「エミール」を読み耽ってしまい、散歩を忘れてしまったという逸話があります。(都市伝説らしいですが。笑)
神の存在の議論は終わり! でも、神は必要である。
ここまで、カントは理性の暴走を語り、理性がうまく機能するのは認識ではなく、行為に対してである、とお話ししました。認識に機能すると暴走することが多くありますが、行為に対しては「自由」にポジティブに働くということです。
ただ、カントはこの章のタイトルにもある通り、「神は必要である」と考えます。正確に言うと、神の存在は人間によって「要請」される、といいます。
その理由はなぜでしょうか?これは皆さんも想像しやすいかと思います。そして、今でも、この考え方が「神」の有効な考え方として定着しています。最後にその解説をして終わりたいと思います。
カントは、神とは、完全な道徳と幸福を実現する叡智界の最高ランクの存在であり、「最高善」と呼びます。現実において、理不尽で不幸で報われない出来事が様々起きても、その神が配慮してくれると信じるからこそ、人間は道徳的な判断をすることができ、最善の人生を送ることができる、と話します。つまり、最善に生きるために、神の存在は必要であると論理を進めました。

加えて、死後の世界や魂についての想像も、よりどころとして要請されると結論づけます。カントは、「答えの出ない問い」を議論するのではなく、答えは出ないと結論づけて、「存在する」と考えるのが人間の自由の上で必要になると発想したのです。
以上のように、カントは自由を道徳に見出し、人が「正しく」生きる価値観の指針を哲学において示しました。皆さんも少しは感じているかもしれませんが、最善を道徳に結びつけるのはあまり納得できないかと思います。この後、ニーチェという有名な哲学者がこの道徳論を一蹴します。ご興味を持っていただけたらコメントなどで教えていただければ続けていきます!
まとめ
カントは経験論と合理論、この二つの認識論を統合しながら、哲学の歴史上最大の難問について一つの意見を提示し、その論理の中で、人間がよく生きるための方法について結論を出しました。これが本当にすごいことであることは、哲学の歴史だけでなく、自然科学の歴史を見ても明らかです。
このカントの哲学は、西洋哲学へ大きなインパクトを与え、ドイツ観念論の祖として今後もその批判や反動から発展していきます。ぜひ、興味を持った方は深く学んでいただければ幸いです!
最後に 僕らは多様性が認められる社会を作りたい!
初めての執筆でした。非常に長かったですが、最後まで読んでいただいた方、本当にありがとうございました。
デビューからカントを選んだこと、書きながら後悔することもありましたらが、なんとか最後まで書くことが出来ました。カント については様々な視点から捉えることができますので、また違う視点からカント について勉強してかける機会があれば嬉しいです。ぜひ、皆さんの感想を聞かせていただけたら嬉しいです。
最後に、このWebメディアを始めた理念を書いて終わりに致します。
社会がテクノロジーやグローバルによって日本も一気に変わろうとしている世の中で、日本は価値観を柔軟にできない人が多いと言われています。コロナウイルスのせいで大きく社会が動き始めましたが、それ以上に自発的な行動が必要だと思っています。そして、私はその原因が、視野の狭さにどうしても原因があるのではないかと考えています。それは教養の広さ深さにも影響があると思います。
私たちは全くもって未熟ながらも、こうした行動を通して、自分たちの視野を広げるのと同時に、できる限り、多くの方々と一緒に視野を広げられたら最高だ!と思い、こうしたアクションをしました。
現代も、カントの生きた時代のように少なくとも日本国内での価値観は転換期に来ていると思っています。カントは自由を道徳に求めました。現代では自由は多様な価値観から求めるべきと思います。学問が共有可能であるとカントが証明したことから自分たちが学んだことを積極的に共有して、多くの価値観を理解できる人々で溢れる理想郷が来ることを願ってこれからも記事を書きまくります!
お読みいただきありがとうございました。
参考文献
その他、いくつかのサイトを参考にさせていただきました。
教養には読書が最大効率で有効です。読書にはKindle Paperwhiteが最大効率で有効なのでこちらもご紹介しておきます。
①あらゆるモノは、自分の目で捉えて頭で考えるという「主観」を通してでないと理解できない。自分の目以外で捉えることは人生で一度もできない。