【10分でわかるフランス革命】流れや歴史的意義を徹底解説!

今回のテーマは世界史からフランス革命です。

フランス革命は学校で習う用語の中でも超重要な項目として扱われています。なのでフランス革命を聞いたことがない人はいないと思います。

ではなぜこんなにも大きく取り上げられているのか?その理由は何千年とおこなわれてきた人間の営みの基礎を大きく転換する出来事だったから、です。

今回は、なぜフランス革命が世界史の中で重要だったのか。流れ解説しながらフランス革命の役割について現代とのつながりについても解説していきます。

フランス革命は王政から共和制への転換点

フランス革命は、一言で表すと「市民が自国の王を倒して市民自身で政治をおこなうように社会を変えた革命」です。

冒頭でこれが大きな転換点だと言いましたが、そのためには革命の前と後で一体何が変わったのかを理解することが大切です。

革命前の世界で主流だったのは国王が権力を持って国の方針を決めるスタイルでした。これを王政と言います。特に中世ヨーロッパの王政では国王の権力が絶対的であったことから絶対王政と言われます。この絶対王政では国王があらゆる政治判断をします。なので市民に税金を課すとか軍事力を強化する、どこに財源を振りかけるか…等々の判断はすべて国王によって決まります。

絶対王政:君主(国王)が絶対的な権力を行使する政治の形態

それがフランス革命後からは国民ひとりひとりが権利を持って国を運営するというスタイルに変わりました。これを共和制と言います。共和制では国王が存在しません。国王以外の人によって政治が動かされるので、例えば現代社会のように選挙で選ばれた政治家の集合体が国を運営したりするわけです。今でこそ共和制は現代社会を生きる私たちにとって比較的当たり前の統治形態ですが、その当たり前はフランス革命から始まったということであり、だからフランス革命が大事だと言われるのです。

共和制:君主を持たない政体、君主制ではない政治体制

フランス革命のきっかけ「思想教育、身分制、財政問題」

何か事件が起こるところには必ずなにかしらの原因が存在します。フランス革命が起こった原因は主に三つあったとされています。それは、社会契約説と言った思想教育身分制財政問題です。

思想教育

ひとつめは思想です。フランス革命が起こった18世紀には思想家のルソーやロックによって人間は生命・財産・自由の権利があるとする自然権の思想、その権利が国家に侵害されるときは人民には抵抗する権利があるとする抵抗権の思想、さらには社会は人民の平等な契約をもとに成り立っているという社会契約説といった新しい考え方が提唱されていました。

こういった思想は啓蒙思想と呼ばれ、フランス革命の理念的な土台となりました。ちなみに啓蒙とは「無知(蒙)の状態をひらく(啓く)」という意味で、知識ある人々が知識なき人々を教育して無知から解放してあげるという上からの改革というニュアンスを含んでいます。

それまでのヨーロッパ社会は国王の意向によって国が動くというのが常識でした。しかし、人民ひとりひとりが社会の運営に関わっていくべきだという思想が知識人たちによってじわじわと浸透していったというわけです。

身分制

ふたつめは身分制度です。

フランス革命前のフランスには身分が三つありました。

第一身分……聖職者

第二身分……貴族階級

第三身分……平民

この身分制を含めた体制はフランス革命を機に破壊され、のちの時代から見て古い体制になるので「アンシャン=レジーム(旧体制)」と呼ばれます。

中世のヨーロッパ社会はキリスト教の価値観が中心となって成り立っているので「キリスト教に従事する者=聖職者」が一番身分が高いです。その次は血縁と資本力がある貴族です。この二つは特権階級と呼ばれ、課税されない特権がある上に政治に参加する権利までありました

第三身分の平民は農民や商人から構成されて全体の9割以上が第三身分に属していました。特権階級に比べて第三身分は税金は普通に払わなくてはならないわりに政治的発言力は皆無でした

フランス革命の主な担い手は市民(=第三身分)、特に商業に従事して財力を持つようになったブルジョワと呼ばれる平民であり、これだけ特権身分ばかりが優遇されてそのしわ寄せが平民に来ていたことに対して不満がたまっていたのが現状でした。

以下の風刺画は特権階級が平民の上に乗っかって平民が重い負担を強いられている様子を示しています。

アンシャン=レジームに対する風刺画
アンシャン=レジームに対する風刺画

財政問題

当時のフランスの国家財政運営もとてもうまくいっているとは言えないものでした。

絶対王政下では国王に国の予算管理の権限がありますが、当時のフランスは対外戦争やアメリカ独立戦争への支援など軍事面でお金を使うだけでなく、宮廷の豪華な生活を維持するのにもたくさんのお金を使っていました。そのわりに国家の収入は増えないのでどんどん財政が赤字化していきました

この積み重なった赤字を解消するために財政家を設置するなどして税金を課し歳入を増やす改革を実行しようとしますがいまいちうまく改善できず、王が自分の決断で戦争をしたり優雅な暮らしをしていたせいで赤字になったのに、そのツケが国民に来ることに国民の不満はたまるばかりでした。

革命の歴史的流れ

ここまではフランス革命が起こる前までの話だったので、ここからはフランス革命が実際どのように進んでいったのかという流れを述べていきます。

冒頭で「フランス革命とは王政から共和制への移行のきっかけづくりを果たしたこと」だという話をしました。ただし、王が国民によって追放されて「王がいなくなったから市民みんなで議会作って国の運営決めていこうぜ」とすんなり移行したわけではありません。

もともと特権階級である第一身分、第二身分の人々にとっては王にいてもらって自分たちを優遇してもらいながら国家運営する方が都合が良いでしょうから、国王には存続してもらいつつ憲法である程度監視する立憲君主制が人気でした。第三身分の中にも立憲君主制でいいんじゃないかという派閥から平和的に共和制に移行するべきだという穏健派や貧しい層の平民にまで権利を行き渡らせたい急進派がいてそれぞれの利害がまとまっていなかったわけです。

フランス革命時の大まかな勢力図とその目的

さらにここに国王の意向(どのくらい国民に譲歩するか)も混ざってくるわけですからさらに意見を統合するのが困難になります。

こういった革命のゴール地点に対する様々な立場と意見の違いが革命を荒れさせる原因になりました。

ちなみにフランス革命はこの国家運営に対するビジョンが異なる中でどの勢力が実権を握っていたかをベースにしていくつかの段階に分かれています。そのためフランス革命を学ぶ際には革命の段階とそこでの実権勢力をリンクさせて考えるとわかりやすくなると思います。

革命の第一段階

1789年に第一身分から第三身分までの代表者が集う議会である三部会が招集されました。絶対王政になってからはずっと王が政治的決定をしていたので招集されたのは実に170年ぶりのことでした。

そこでは第一身分と第二身分 vs 第三身分の対立が起こりました。特権階級側は身分別議決(1身分につき1票)を主張しますがそれだと当然第三身分は不利なので頭数での議決(議員数自体は第三身分のほうが若干多かったとされている)を主張します。

議決方法で対立し、本来話すべき議論も進まないので第三身分代表とごく少数の啓蒙思想に共感する貴族たち(=自由主義貴族)が別の新たな議会を作ってしまいました。これを国民議会と言います。三部会では話が進まないので自分たちで議会を作ってそこで色々決めてやろうということです。

この国民議会では封建的特権の廃止人権宣言が採択されました。

封建的特権の廃止とはざっくり言ってしまえば農民という平民階級だからという理由で無条件に課税されたり、領主という特権階級だからという理由で税を免除されたりするのはもうやめてみんな平等に課税されるようにしましょうよ、といった感じの内容です。

人権宣言は前の思想教育の項で出てきたロックやルソーの考え方をきちんと宣言として文章化したという感じです。

またこの間に国王ルイ16世は国外に亡命しようとヴァレンヌ逃亡事件を起こしましたが、国民にバレてしまいますます信頼を失うこととになりました。

革命の第一段階で国民議会を主導していたのは立憲君主制を目指す勢力でした。この人たちはフイヤン派と呼ばれます。そうして国民議会は1791年憲法を制定して立憲君主制への移行を宣言したのち役割を終えて解散しました。

ここまでが第一段階です。

国民議会では、議長の右側に王の特権やアンシャン=レジームを肯定する保守的な層、左側に立憲君主派や共和派といった改新的な層が座っていました。ここを起源として右派=保守層、左派=改革・急進層と呼ばれるようになったと言われています。

右派左派の解説については教養太郎のYouTubeチャンネルにて動画をあげていますので是非ご覧ください。

革命の第二段階

国民議会が解散したのでフイヤン派の人たちが中心になって新しい議会立法議会が立ち上がりました。そこにはフイヤン派だけではなく平和的に共和制を望むジロンド派やもっと急進的に共和制に移行しようとする山岳派(のちのジャコバン派)と呼ばれる人たちもいました。

ちなみに各勢力の支持基盤は以下のような人たちです。

ジロンド派……平民の中でも資本のある富裕層の人たち。ブルジョワ。

山岳派…………平民の中でも農民や下層市民など財力がない層。

フイヤン派にとっては求めていた立憲君主制になって満足ですがジロンド派は共和制までいきたいのでそこを巡って対立することになります。

1792年8月10日には現状の議会に納得いっていない過激派の山岳派勢力が国王一家を捕らえるという8月10日事件が起こりました。当時の議会でメインだったのはフイヤン派であり、国王の身に何かあっては困るのでこの事件を受けて王権の停止と新議会を招集することを決めて解散することとなりました。

ここまでが革命の第二段階になります。

革命の第三段階

立法議会が解散して次の議会は男性普通選挙によって選ばれました。この議会を国民公会と言います。

国民公会では主にジロンド派と山岳派によって運営がなされていました。

1793年には山岳派の主張で国王ルイ16世の処刑が決定してしまい、実行されました。このタイミングでもう革命の目的は十分に果たされたとするジロンド派まだまだ革命が足りないとする山岳派で対立が深まっていくこととなりました。

またこれまでもフランス革命が自国に波及することを恐れて諸外国が革命に干渉してくることはありましたがいよいよ国王が処刑されるという衝撃的な事件が起こったために「これは本格的にヤバい」ということで各国が危機感を強めました。これによりフランスに対抗する包囲網が作られることとなり、これを対仏大同盟と言います。

ジロンド派と山岳派が対立を深める中で山岳派がどんどん過激になり、ついには議会からジロンド派を追放しました。こうして議会のメンバーが山岳派だけになり、山岳派は独裁政権への道を歩んでいくこととなりました。

なお、このあたりから山岳派はジャコバン派と呼ばれるようになっていきます。

ジロンド派がいなくなった国民公会のトップに立ったのはロベスピエールという人物でした。彼は1793年憲法という憲法を制定し、人民主権を宣言したり、封建的地代の無償廃止によって領主が無条件で課税できる権利を廃止しました。革命の第一段階での封建的特権の廃止は条件付きの廃止でしたが、今回はその条件すらも廃止にしたという違いがあります。

ロベスピエールの肖像
ロベスピエール

それに加えて過激派ロベスピエールは自分たちと考えの合わない反抗勢力を次々に処刑していきました。反抗勢力とは具体的には王党派やフイヤン派、ジロンド派の残党たちです。

こんな感じで独裁政治と恐怖政治によって暴れまくっていたロベスピエールは穏健的な共和派勢力によるクーデタ(テルミドールのクーデタ)で捕まり、最期を迎えることとなりました。

以上が革命の第三段階になります。

革命の第四段階

過激だったロベスピエールがいなくなったことで、クーデタを起こした穏健的な共和派の人たちが次の政府として総裁政府を立てました。1795年憲法を立てて財産は個人が持てることを制定しました。

これでめでたしめでたし、と思うかもしれません。しかしながら、革命の熱が冷めやらないフランス社会はまだまだ不安定で、この期に及んでまだ王政を望む王党派や逆に共産化しようとする勢力がいて蜂起が起こっていました。

しかしこういった人は一部で、多くの農民や都市の市民はもう革命は十分に果たされているから政治が安定してほしいと望むばかりでした。

そうして政治の安定のため支持を集めて台頭してきたのがかのナポレオンであり、彼はクーデタ(ブリュメール18日のクーデタ)を起こして総裁政府を倒し、自分が統領政府を立てて第一統領となるのでした。

一般にはフランス革命はナポレオンが統領政府を立てたところまでを指すことが多いです。したがってこれが革命の第四段階になります。

革命の流れまとめ

ということでここまで見てきたようにフランス革命というのは王党派、立憲君主制派、穏健共和派、過激な共和派などなど様々な派閥が実権を取り合い、争った革命でした。しかもそれが1年ごとにコロコロ変わるので本当に大荒れ状態だったというわけです。

以下にフランス革命の第一段階から第四段階までの大まかな議会の流れを画像でまとめました。補足資料として参考にしてみてください。

フランス革命における各議会の大まかな対立構造と変遷

最後にフランス革命の意義を確認してみましょう。

フランス革命の意義「国民国家と資本主義」

ここまで読んでくださった方は以下にまとめるフランス革命の意義がよく実感できるかと思います。

まずは政治面の意義です。

最初にも言ったように中世の典型的な国家スタイルであった王政が終わり、これからはその国の国民が国家を運営するという「国民国家」の先駆けとなりました。その背景には市民ひとりひとりの権利を大切にするロックやルソーの思想があり、いままでただの理論だったものが現実社会で実践されたんだということに大きな価値があります。

もうひとつは経済面の意義です。

フランス革命の中で制定された憲法に私的財産の不可侵を規定するものがありました。これの意味は経済活動で作り出された財産はその人のものであるということです。したがって商人は商取引で稼いだ資産を国王の豪華な生活のために徴税されることはなくなったし、農民が自分の農地で作った作物は領主に搾取されることがなくなったということです。これはつまり私たちが基盤としている資本主義が育つ土壌が形成されたということになります。

このふたつを一言でまとめると「世界はフランス革命を起点として国民国家化し、資本主義化した」という感じになります。時代区分もここを起点として中世・近世から「近代」に切り替わります。

このふたつがフランス革命の大きな意義です。

まとめ

フランス革命は人間社会が近代に移行するうえで非常に重要な役割を果たしました。

このような大きな転換点はフランス革命だけでなく、ほかにイギリス市民革命、アメリカ独立革命、産業革命があります。この四つが転換点としての四大革命です。

みなさんに歴史の意義、重要性をわかりやすく伝えるため今後ともこれらの革命や歴史的事象について解説をしていきたいと思っていますのでどうぞよろしくお願いします。

また教養太郎のページおよびYouTubeチャンネルでは歴史だけでなく哲学や社会学など幅広くトピックを扱っていますので興味のある方は是非ご覧になってください。

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